
千歳飴の由来と意味 — 紅白2本ではなく、本来は歳の数だけ
七五三の千歳飴は、紅白の2本で一組だと思われがちです。けれど本来は、三歳なら三本、七歳なら七本と、歳の数だけ用意するものでした。飴の長さに込められた意味と、土地ごとに違う七五三の話。
十一月十五日が近づくと、店先に細長い袋が並びはじめます。
鶴と亀の描かれた紙袋に、紅白の飴が入っている。七五三の千歳飴です。多くの場合、紅白で二本。そういうものだと思って、私たちは受け取っています。
ただ、由来をたどっていくと、本数の話が少し違って見えてきます。
「千歳」は、千年のこと
千歳飴の「千歳」は、千年、あるいは長い年月を指す言葉だといわれています。
飴は、引けば細く長く伸びます。その姿を長生きになぞらえて、千年まで健やかにと願いを込めたもの。名前の由来としては、そう説明されることが多いようです。
はじめは「せんざいあめ」と読まれていて、のちに「ちとせあめ」になったという説もあります。長い飴を長寿に重ねる発想そのものは、名前がどう読まれていたかにかかわらず、変わらずに残ったことになります。
本来は、歳の数だけ
ここが、あまり知られていないところだと思います。
老舗の和菓子店が伝えるところによれば、千歳飴は本来、歳の数だけ用意して祝うものでした。三歳なら三本、五歳なら五本、七歳なら七本。紅白で二本と決まっていたわけではないようです。
言われてみれば、筋は通っています。千歳飴は「この子が何歳になった」という節目を祝う菓子です。年齢そのものを本数で表すなら、七歳の子には七本ある。祝う対象が数として目に見える形になっています。
かつては、縁起をかついで折らずに食べるものだったという一説もあります。ただしこれも、そう伝えられているという話で、決まりごととして残っているものではありません。
いまの千歳飴は、紅白の二本組で売られていることがほとんどです。それが間違いというわけではなく、簡略になっていった形が定着したということなのだと思います。
始まりには、いくつもの説がある
千歳飴がいつ、どこで生まれたのかは、はっきりしていません。
江戸時代のはじめ、大坂の商人が江戸に出て、浅草寺の境内で売りはじめたという説があります。少しあとの時代に、浅草の飴売りが紅白の飴を「千年飴」として売り出したという説もあり、こちらは江戸後期の随筆に記載があるとされています。神田明神は、社頭で売られていた祝いの飴が始まりだと伝えています。
どれも江戸の町が舞台になっている、というところは共通しています。ただ、どれか一つが正しいと決められるだけの材料は見当たりません。諸説あります、というのが正直なところです。
袋に描かれているもの
千歳飴の袋には、たいてい決まったものが描かれています。
鶴と亀。松竹梅。それから、白髪の老夫婦。
この老夫婦は、能の『高砂』に出てくる翁と媼だといわれています。いずれも長寿や、添い遂げることの象徴として選ばれてきた図柄です。
飴そのものが長さで長寿を表し、袋がその周りをさらに縁起物で囲んでいる。中身と包みが同じことを言っている菓子、ということになります。
七五三は、土地によって年齢が違う
ここから先が、調べていていちばん意外だったところです。
七五三は三歳・五歳・七歳を祝う行事だと、全国どこでも同じように思われています。神社本庁の説明でも、三歳の髪置、五歳の袴着、七歳の帯解に由来するとされ、十一月十五日に盛大に祝うようになったのは江戸時代からだといわれています。
ところが、熊本ではもう一つ年齢が入ります。
熊本総鎮守の藤崎八旛宮は、子どもの儀礼として「髪置三才の男女児、紐解四才の男女児、袴着五才の男児、帯解七才の女児」を案内しています。
三歳の翌年、四歳でもう一度お参りする。男女ともです。三・五・七という並びの外に、四歳がある土地があるということになります。
島根では、そもそも呼び名が違います。島根県古代文化センターの解説によれば、この地域では「紐落とし」あるいは「帯なおし」の名でよく知られていて、男女とも満三歳で行われるのが大半だといいます。石見の西部には、満二歳で行う地域もあるそうです。県の中でも、さらに分かれている。
付け紐のついた着物から、帯を締める着物に変わる。名前は、その着替えそのものを指しています。「七五三」という数字の名前より、何をする日なのかがそのまま出ている呼び方です。
北海道は、十月に
日づけが動く土地もあります。
北海道神社庁は、北海道では寒くなるのが早いため、本州よりひと月早く十月十五日頃から行っていると説明しています。別のページでは、札幌市内および北海道の一部地域で十月に七五三詣を行うこと、雪が降って寒さが増す前にと札幌市内の神社が繰り上げたのが始まりといわれること、いまは十月十五日から十一月十五日までの間に実施されているようだ、と書かれています。
北海道全域が十月というわけではなく、札幌を中心とした地域の話です。神社庁自身も「いわれています」「しているようです」という書き方をしていて、経緯がはっきり残っているわけではないようです。
寒い土地では、着物の子どもを外に立たせておける日が限られます。行事の日づけのほうが、気候に合わせて動いた。理屈としては、そういうことなのだと思います。
鹿児島には、七軒まわってもらう粥がある
これは七五三ではなく、別の行事です。ただ、子どもの節目を食べもので祝うという点では地続きなので、並べておきたいと思います。
鹿児島には「七草祝い」という風習があります。照國神社の案内によれば、一月七日、数え年で七つになった子どもが、七五三のときのように着物や袴で着飾って神社で祈願を受ける。そのあと重箱を持って、七軒の家をまわって七草がゆをもらいます。薩摩藩の時代から続く行事だとされています。
『鹿児島市史』の民俗編には、もう少し細かい様子が残っています。七草と米を煮て、最後に餅を小さく切って押し込む。もらいに来た子どもへ、家の人が「七軒に足らんニャ、七つにナラン」と声をかける。
七軒まわらなければ七つにならない、という言い方です。昔はお祝いの金などは添えなかったとも書かれています。同じ市内でも、この行事がなかった地域があることまで記録されています。
粥の呼び名は土地によって違い、市史にはナナトコズシ、ナンカンズシといったかたちで出てきます。「ズシ」は雑炊のことです。
旧島津藩領だった宮崎県の都城にも同じ行事があり、こちらは農林水産省の「うちの郷土料理」に「七とこずし」として記録されています。米と餅に、人参、ごぼう、里芋、白菜、乾しいたけ、油揚げ、大豆もやし、せり。春の七草だけの粥とは、だいぶ様子が違います。
子どもが自分の足で近所をまわり、七軒ぶんの粥を集めてくる。祝われる側が動く行事というのは、あまり見かけない形だと思います。
祝いの赤飯も、土地で違う
七五三の食卓に赤飯を炊く家は多いと思います。この赤飯も、実は全国同じではありません。
農林水産省の「うちの郷土料理」によれば、北海道の赤飯は小豆ではなく甘納豆を使います。甘い赤飯です。しかもこれは古くからの伝統ではなく、昭和二十年代後半に札幌の学校法人の創設者が考案したものが、講演や媒体を通じて全道に広まったとされています。行事の食べものが、はっきりした始まりを持って新しく生まれ、定着した例ということになります。
山梨にも甘納豆を使う赤飯があり、こちらはルーツについて複数の説が伝えられています。
祝いの日に赤いご飯を炊く、というところまでは同じで、その中身は土地ごとに違う。しかも、比較的新しく生まれたものが、すでに「その土地の祝いの味」になっている。行事食は、思ったより動くもののようです。
長く、細く
千歳飴に話を戻します。
本来は歳の数だけ、という形は、いまではあまり守られていません。紅白二本の袋を受け取って、写真を撮って、家に帰ってから折って食べる。それが今の千歳飴です。
ただ、七歳の子が七本の飴を抱えている姿を想像すると、この菓子が何を祝うためのものだったのかが、少しはっきりする気がします。三歳の子は三本しか持てない。七歳になれば七本持てる。増えた本数のぶんだけ、無事に過ごした年月がある。
土地によって、祝う年齢も、日づけも、食べるものも違いました。それでも、子どもが一つ歳を重ねたことを何かを食べて祝う、というところは変わっていません。
十一月十五日は、そういう日として続いてきました。
※ 本記事はまちもぐ運営事務局が制作しています。七五三の由来は神社本庁、熊本の子供儀礼は藤崎八旛宮、島根の紐落としは島根県古代文化センター、北海道の実施時期は北海道神社庁、鹿児島の七草祝いは照國神社および『鹿児島市史』、郷土料理は農林水産省「うちの郷土料理」が公表している情報に基づいています。千歳飴の由来・本数・袋の意匠については、諸説あるうちの伝えられている内容を紹介したものです。



